昭和52年10月30日 朝の御理解
御理解第 92節
「神は一体じゃによって、此方の広前へ参ったからというて、別に違うところはない。あそこではおかげを受けたけれど、ここではおかげが受けられぬというのは、守り守りの力によって神のひれいが違うのぞ。神の守りをしておれば、諸事に身を慎み、朝寝をしてはならぬ。早く起きると遅く起きるとは、氏子が参詣の早い遅いにかかわるぞ。」
これは教祖様の御信心を頂いて、御取次の御用に携わらして頂く者に対して御理解下さったんだと思いますですね。まあここのところから判らせて頂く事は、「おかげは合わせ鏡と同じだ」と言われております。こちらが五の信心が出来れば言わば五のおかげと。「早く起きると遅く起きるとは、信者が早い遅いに係る」と言われるように、同じ事なんです。先生が熱心だとやはり信者も熱心な信者が出来るとこう言う。「名将の下に弱卒なし」と言う様な事を申します。
ですから、結局信心は一人一人の言うなら、力という力量だと言う事が判ります。これは教師信者を問わずやはりそれが言えます。だからその力量の如何でおかげが違うてくる。私はもう、初めていろんなお願いに参ってくる方たちに、これは病院でも、どんな人間関係でも、いろんな問題、こうしてお願いに見えた。御取次をさして頂いた。「必ず印が見えますよ」と言う事を申します。これはもう難しいという病人でも、御取次を頂きますと、これでまたおかげが頂くことだろうかと思うくらいに印が見えます。
だから「これはどこまでも印だからね、後は自分の信心でおかげを受けなければいけませんよ」と。まあ頼んどるからよかろう、願いしておるから良かろうではいけません。印が見えると言う事は、神様の働きがこのようにしてあるんだと言う事の印だけなんだと。私は今日思いますのは、「神の比礼が違うのぞ」と仰るのは、そう言う所がはっきりしておるだけだと思うんですね。おかげの印がはっきりしておる。
だからならおかげを愈々頂くと言う事は、やはり銘々言うなら「守り守りの力」と言ってあるのは、そのおかげの印が見せれる位な言わば力、だから本当のおかげを頂くと言う事、本当の信心を頂くと言う事は結局お参りをしてくる、言うなら御取次を願う人達の信心の力量による事だと。昨日井上太郎先生が当番でした。ですから夕べの御祈念の後にお話をしておりましたが、昨日の御理解を頂いてと言うて御理解してました。
「カンテラの中にいくら油が一杯入っておっても、氏子に芯なければ火が燈らず。火が燈らねば夜は闇なり」という御理解を引用して「私あの御理解を頂いて、いかに合楽に一杯の油があっても、私共一人一人に芯がなかったら、やはり火が燈らないと言うふうに私は頂いた」と言う話をしておりました。
正しくやっぱりそうです。なら合楽の御広前に一杯の油が湛えられておっても、言うならばお徳が溢れる様に。ここの御広前に例えばあったと致しましても、私共一人一人に芯がなからなければ矢張りおかげは受けられん。どんなになら高徳の先生のところであっても、しだごだの信心ではやはりしだごだのおかげしか受けられんと言う意味の話を、ここから聞かせて頂ながらね、成程そうだなと思いました。
それは本当にやはりお徳を受けておられる先生の所では、言うなら奇跡的なおかげも立ちますし、現われます。けれどもね、それは言うなら、ただおかげの印であります。だから本当に信心を頂こう、本当に力を受けよう、お徳を受けようとするならば、やはりそこに信心の精進が本当になされなければ、言うならば「芯がなからな火がともらん」ということであります。
昨日敬親会でした。昨日は沢山集まっておられましたが、お年寄りの方たちの信心の研修です。この頃段々、敬親会もやっぱり本当の信心が身に入ってきたんじゃろうと。初めの間は、ついこの頃までは、敬親会と言やあ、まずお茶のみ友達が皆集まって茶話的なような感じの会合でした。だからもう一番初めにお茶が出て、そりゃ饅頭やら色々銘々持ってこられたのを一杯出して、でお茶を頂きながら、そしてお話をする。
ならもうこりゃ私の流儀ですけども、お茶飲みながらでも話すのは、もう結局どんな良い話でも茶飲話になってしまう。だからもう「さっさと早よう飲みなさい食べなさい」と言うといて、そしてそれを一遍下げさせます。茶でん何でん。そしてからお話をしよりましたけれども、この頃からは、お話が先になって、もう昨日なんかは四時になってから、ようやくお茶が出たくらいでした。と言うくらいに信心にそのお年寄りはお年寄りなりに、信心の熱を燃やしておられるわけであります。
中で、武内良子さんのお母さんです。日田の奥の方から参ってお見えになります。もうとにかくお若いのに驚きます。「もうこの何月で八十三歳になります」と仰った。六十くらいにしか見えない。家辺りの家内と比べると、家内の方がしわくれとるような感じがする。まあだ六十くらいそりゃもう若い若い、それこそ艶々しておられます。お話なんかもまだシャンとしたお話しが出来なさいます。こう言う事を話しておられます。
「私はある人が、人生が燃えることだと言う言葉を聞いて以来、もう確かに歳をとっておっても、やはり燃えておらなければいけない」と言う事を話しておられます。「人生が燃えることだ」と。ですからまあ言うならば、歳をとったから呆けると言った様な事がありますけどもね、そう言う事はない。なかなか勉強される。いろんな稽古事もなさる。最近は絵の稽古をなさっておられる。八十三歳。
そして「人生が燃えることだ」と。ですから、同じ稽古事をされるでも、年寄りの何と言った様なものではなくて、やっぱり本気で、それに楽しみを覚えながらの稽古である。これならば、やはり頭の回転というかね。呆けると言った様な事もないだろうと私はやはり思います。ですから、例えば信心を段々頂かしてもろうて、原さんとか、熊谷さんとか、波多野さん辺りは、敬親会におられますけれども、言うならば、それこそ信心が燃えておられます。
そりゃもう若い者も勝たないように、それこそ燃え続けておられる。もう八十幾つになって毎朝、朝の御祈念に参って見えますし、会合があると昼間も見えますし、さあお月次祭と言やあ、一遍お供えを持ってきといて、そしてまたお月次祭に参る。とにかく日に三回も四回も吉井辺りの遠い所から参って見える。そりゃもうそれにかかっておられる。そのかかっておるということが、燃えておらなければ出来るこっちゃないのです。だからやはりおかげも受けられます。
どんなに、なら、合楽が、お徳がここに充満しておると言うても、それを頂き、それを判らして頂くということは、ただ、いわゆる井上先生が言っておりますように、いかに合楽でおかげを受けられると言うても、芯がなからなければ火はともらない。油がここに一杯あっても銘々の芯がなからなければ、その芯の追求だと。追求ということはもうそのまま燃えておるということなんです。
今日の御理解は、まあ御取次をさして頂く者に対して教祖様が教えられたことが、この九十二節の御理解になっておる訳でございましょうけれども、あそこでおかげが受けられたけども、ここでは受けられんというのは、それはおかげの印が違うのである。本当のおかげというものは、それこそ「神は一体じゃによって」と仰せられるのですから、同じなんだと、いや本当言うたら、その印も見えないくらいな教会なら教会で、本気で信心したら、却って力が受けられる。却ってお徳が受けられる。
そんな傾向を感じます。それにはやはり銘々の、言うならば芯が必要である。同時に燃えておらなければ火は点じられない。取次者の努力如何で、信者が努力をするしないということになる。「取次をさして頂くなら、朝寝をしてはならない。信者の早い遅いにかかわる」というふうにおっしゃることは、ただ早い遅いということだけではない。一事が万事に、「お前の信心がそのまま信者に現われるのぞ」ということであります。これはだから取次者だけ。
お互いの信心の上にも、それは頂けることです。信心は、おかげは合わせ鏡と同じ事だという意味にここは頂くべきでしょう。「神の比礼が違うのぞ」と言うのは、真のおかげというのではなくて、おかげの印がありありと、言うならば、「成程神様ちゃござる」と、例えば神様を知らない人にでも、神様を感じさせるような働きが違うだけであって、なら合楽でもそういう印が見えてもです。
おかげを受けるということは、その後においての銘々の信心によっておかげを受けるのである。言うならば、「合楽で、ここのお徳の中に浸っておっても、芯がなければやはりおかげは受けられない」ということを、井上先生は言っておられます。そのことと武内のお母さんが言われる、「人生は燃えることだ」と。これは確かにそういう熱がなからなければ、ぼんやりした信心が、例えば千日続いたところでです。
蛍を千匹集めたようなものです。ぼんやりその辺が明るくなっておるというだけであってね、神の裏表を突き貫くと言う事にはなりません。信心とは結局神様との交流であり、貫く事なのですから、例えば一本の線香に火がついておる、それを紙にこう当てますと、貫く事が出来るでしょう。蛍の火を千匹持ってきた所で貫く事は出来ません。燃えておらなければ神様との交流などと言う事は思いもよらないことです。
ただ「お願いしとるけんよか」と言った様な事で、神の裏表を突き貫くと言う事は出来ません。そこにやはり当たれば「熱っ」と言った様なものがね、お互いの信心には必要だと言う事です。ピリッと来るものがその人の信心内容になからなければならいと言う事なんです。今日は、言うなら取次者に対する御理解を、お互い信奉者が成程九十二節をを頂くならば、今日聞いて頂いた様な所を頂かなければならんと思いますね。
どうぞ。